徒然MEMO

もともとは読書日記。今はよしなしごとをメモする場として。

ロンドン五輪開会式・閉会式と、映画「英国王のスピーチ」

ロンドンオリンピックの開会式では、数々の英国ロックの名曲が紹介された。

地下鉄風パフォーマンスのときの音楽は、ザ・ジャムの「ダウン・イン・ザ・チューブステーション・アット・ミッドナイト」。これがロック1曲目だった?
で、驚愕の一曲は、セックス・ピストルズの「ゴッド・セイヴ・ザ・クイーン」。以下歌詞。

God Save The Queen/Sex Pistols
"God save the queen
She ain't no human being
There is no future
In England's dreaming
....
No future, no future,
No future for you
No future, no future
For you"
http://www.plyrics.com/lyrics/sexpistols/godsavethequeen.html

"神よ女王を守りたまえ
彼女は人間じゃない
イングランドの夢には
未来がない
……
未来はない、未来はない、
未来はない、あなたには"(拙訳)

ザ・クラッシュの「ロンドン・コーリング」も。

London Calling/The Clash
"London calling, see we ain't got no swing
'Cept for the ring of that truncheon thing

The ice age is coming the sun is zooming in
Meltdown expected and the wheat is growing thin"

"こちらロンドン、俺たちはスウィングしていないだろ
警棒とやらの輪っかを除いては

氷河期がやってくる 太陽が迫ってくる
メルトダウンが予想され 小麦はやせ細る"(拙訳)

スウィンギング・ロンドンの繁栄は今や昔、
警官の横暴や、原発事故の恐怖を歌詞にした(?)曲。

「白い暴動」では、
"白人暴動、白人暴動起これ
白人暴動、俺自身の暴動"(拙訳)
と歌ったバンドがクラッシュ。

芸術監督ダニー・ボイル(「トレインスポッティング」)が、
英国ロック、とりわけパンクロックへ敬意を払ってのことなのか。
ただ、話題になりたかったからなのか。

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そして、閉会式。
キンクスの「ウォータールー・サンセット」。名曲。

オアシスのリアムのバンド、
なんであんなにダメダメなんだ?

今やスポーツのビッグマッチには欠かせなくなったクイーン。
ブライアン・メイはまだ元気だ。
赤いギターも元気だ(オリジナルのレッドスペシャルだとすれば)。

大トリはザ・フー
ロジャー・ダルトリーがんばれ、と心の中で叫ぶ。

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さて、ふと我に返って、
「選手たちの汗と涙」という美しい景色の裏に横たわる、
IOCという"独占企業"・政府と地方公共団体多国籍企業と広告代理店・テレビ局の間で、巨額の裏金を含めビッグマネーが行き来する、
極めて拝金主義的な(しかしそうでなくては赤字続きだった)現実的側面。

それを知った上で、その開会式で奏でられるパンクロックを楽しい気持ちで聞いてていいのかね。
英国の歴史にも触れた開会式を観て、英国の長きにわたる侵略史に思いをはせたとき、そこで奏でられるパンクロックを、ただ懐かしいという思いだけで聞いてていいのかね。

そんなことを考える人は、たぶん、いじけた子どもなのか、ひねくれたじじいなのか。おそらくその両方なのだろう。


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英国王のスピーチ」という映画を遅ればせながら観た。

 吃音の英国王子が、王の座を捨てた兄に代わって国王ジョージ6世となり、妻の協力と、医師の型破りなトレーニングのおかげで、第二次世界大戦の戦時のスピーチを成功させるというもの。

 映画の中では、王室の恥部とも言える部分が描かれる。
 ジョージ6世が吃音にいたる理由のひとつが、王室の養育法にあったことが強くし示唆される。
 彼はトレーニングとして四文字言葉を連発する。
「恋のために王座を捨てた」と、ロマンチックに語られることも多いエドワード8世は、この映画の中では、性悪女に振り回されるただの愚かな男としか描かれない。

 アカデミー賞作品賞を受賞したというこの作品。
 人間としての国王を等身大で描いた感動作ということなのだろうか。

 たしかに、壁を克服しようとする人と、それを支えようとする人々を描くのは悪くない。
 ただ、「人間国王」が思い悩むのは、「スピーチの成功」のことだけ。
 これから始まる大戦のもとで、どれだけ多くの人命が犠牲になるのかといったことへの思いは、みじんも感じられない。

 繰り返すと、人の生き死にに関わるスピーチを行うにあたって、
主人公は「自分がうまく話せるのか」を気にするばかり。
 人の生き死にについては、「一個人」としても「国王」としても、まったく気にしているようではない。

 制作者もまったく気にしているようではない。

 たしかに人ってそんなものだとは思うけど、これで感動を売り物にしたいのだろか? 
 人はこれで感動するのだろか? 
 これで感動できない人は、いじけた子どもか、ひねくれたじじいか。おそらくその両方なのだろか?



 描こうとする対象の背景に、暗黒の部分があるならば、まずそれも見つめ、咀嚼した上で、自分なりのデッサンを始めるのが芸術家のたしなみではないだろか。
 それを完全に無視する芸術は芸術と呼べるのか。
 そんなことを、五輪開会式とこの映画を観て、ちょっと思った。